州の名前と州都の名前をクリックするとリンクしています(ドイツ語)


  ブルゲンラント州旗

        州の紋章

ブルゲンラントドイツ語で「城の(多い)州」を意味する。これはハンガリー領であったときに構成していた4県(ポジョニ県モション県シュプロン県ヴァシュ県)のドイツ語名(プレスブルク・ヴィーゼルブルク・エーデンブルク・アイゼンブルク)をまとめる名称として1919年に作られた「フィーアブルゲンラント」(Vierburgenland、4つの城の州の意)という言葉に由来する。プレスブルク(スロバキア語ブラチスラヴァ)がチェコスロバキア領となるなどしたため「4つの」は落とされたが、この地域には歴史的に東方からの異民族襲来に備えて多くの城があったため、州名として相応しいとして1922年の第1回州議会で採用された。

都市の周辺は葡萄畑に囲まれており、また都市周辺部には緑の多い自然豊かな都市である。
ハンガリー貴族であったエステルハージ家が支配した地域で、エステルハージ城(邸宅)がある。また、当家に仕えたハイドンゆかりの地としても著名である。
北部にはユネスコの世界遺産に登録されているノイジードル湖があり、ヨーロッパ最大の遠浅の湖として知られる。


 ケルンテン州旗

       州の紋章

ドイツ語の Kärnten はケルト語に由来すると考えられており、二つの説がある。一つは「友人」や「親類」を意味する carant で、これは青銅器時代のイリュリア人を指しているとする。もう一つは「石」や「岩」を意味する karanto で、こちらが正しければカルンブルク(Karnburg; 現在のマリーア・ザールの集落)やカラヴァンケン山脈(Karawanken)と同根ということになる。
スロベニア語では Koroška (コロシュカ)と呼ばれる。古スロベニア語では Korotan と呼ばれていた。これはカランタニアと関連があると考えられている。
日本語での表記は、「ケルンテン」。まれに英語の Carinthia から「カリンシア」や「カリンティア」と表記されることもある。

 ケルンテン州の州都。郡に属さない憲章都市であるが、クラーゲンフルト=ラント郡の郡庁が置かれている。2007年7月3日から公式名をクラーゲンフルト・アム・ヴェルターゼー(Klagenfurt am Wörthersee)へと変更した。またスロベニア語ではCelovecと呼ばれる。


 ニーダーエスターライヒ州旗

     州の紋章

ニーダーエスターライヒ州は、オーストリアの北東部に位置する連邦州。州名は「低地オーストリア」の意味で、国内では比較的標高が低い。ニーダーエスタライヒ州ニーダーエースターライヒ州ニーダーエステライヒ州下オーストリア州とも。かつては Erzherzogtum Österreich unter der Enns (下オーストリア大公国)と呼ばれた。西でオーバーエスターライヒ州、南でシュタイアーマルク州、南東でブルゲンラント州、北でチェコ、北東でスロバキアに接する。州都はザンクト・ペルテン。人口約160万人。面積19,178km2。オーストリアで2番目に人口の多い州である。州内をドナウ川が流れ、隣のシュタイアーマルク州との境にはアルプス山脈の一角、2000m級の「シュネーベルク」がそびえる。ウィーンは地理的にはこの州内にあるが、行政的には独立している。 

ザンクト・ペルテンは、オーストリアの都市。ニーダーエスターライヒ州の州都およびザンクト・ペルテン=ラント郡の郡庁所在地であり、郡に属さない憲章都市(Statutarstadt)に指定されている。
ウィーン西方約56kmに位置する。機械、繊維、製紙工業が行われる。ロマネスクから初期ゴシック様式のものをバロック風に改装した大聖堂など、多くのバロック建築が見られる。面積108km2。人口約5万人。


 オーバーエスターライヒ州旗

     州の紋章

オーバーエスターライヒ州は、オーストリア共和国を構成する9つの連邦州のひとつ。州都はリンツ。面積約12,000平方km、人口約140万人。オーバーエスタライヒ州、オーバーエースターライヒ州、オーバーエステライヒ州、上オーストリア州などとも表記される。「上(高地)オーストリア」の意。 
州内にアドルフ・ヒトラー出生の地ブラウナウ・アム・インがある。西南部のザルツカンマーグート地域は山と湖の風光明媚な地形で国内外から多くの観光客が訪れる。ハリウッド映画『サウンド・オブ・ミュージック』の舞台となった。

リンツ(Linz、Linz an der Donau)は、オーストリアの都市。オーバーエスターライヒ州の州都。人口は約20万人。ウィーングラーツに続くオーストリア第3の都市である。また、ナチスアドルフ・ヒトラーの故郷はその近郊のブラウナウ・アム・インである。2009年欧州文化首都に選ばれている。世界で最も古いケーキとも言われるリンツァートルテ発祥の地としても有名である。 


 シュタイアーマルク州旗

     州の紋章

オーストリア共和国を構成する9つの連邦州のひとつ。州都はグラーツ。人口約121万人、面積16,392平方km。州の紋章は銀豹。鉄資源が豊富で鉄鋼業が盛んなため「鉄の辺境地」(Eisener Mark)とも呼ばれている。グラーツは自動車生産でも有名である。 

1056年辺境伯Mark; マルク)となったオットカル1世の出身地がシュタイアーであったことに由来する。 

古代ローマ帝国の時代に設けられた砦がグラーツの起源であり、町の語源はスラブ語で「砦」を意味する「グラデツ」からきている[1]13世紀に都市特権を得た。中世後期よりハプスブルク家の支配下におかれ、フェルディナント2世など何人かの歴代皇帝がこの地で生まれた。1586年グラーツ大学が創設され、同大学でヨハネス・ケプラーなど様々な学者が教壇に立った。19世紀以降、交通網の発展や工業化にともなって急速に発展し、現在のオーストリア領内において第2の規模を誇る都市へと成長した。第二次世界大戦では街の一部が破壊された。


    チロル州旗

    州の紋章

チロル州は、オーストリア共和国を構成する9つの連邦州のひとつ。オーストリア西部に位置し、北チロルと東チロルからなる。州都は北チロルにあるインスブルック。東チロルの中心都市はリエンツ。州都インスブルックでは1964年と1976年に冬季オリンピックが開催された。「チロル」の地名は、南チロル・メラン(イタリア語名メラーノ)近郊のチロル(イタリア語名ティローロ)に起源を持つ。ここにあるチロル城の城主であったチロル伯が勢力を拡大した結果、その領地全体が「チロル」と呼ばれるようになった。

風光明媚な観光地として、またウィンタースポーツの地として世界的に知られており、1964年1976年にオリンピックを開催したことでも知られる。

1239年に都市特権を得た。14世紀よりハプスブルク家の支配下に入る。マクシミリアン1世の治世時には都が置かれ、各地から商人が往来する繁栄をした。チロルの鉱山から産出される豊かな資源を利用して、当地に武器工場を建て、最新の甲冑(フリューテッドアーマー)を開発、製造させた。


  フォアアールベルク州旗

    州の紋章

フォアアールベルク州Vorarlberg 紀元前500年前後からケルト人が定住していた。紀元前15年ローマ帝国の支配下に入った。260年フランケン地方を含むライン川上流にいたアレマン人の侵略を受け、ケルト人・ボイイ人ローマ人との混血を繰り返して、450年ころには「フォアアールベルク人」が形成された。

紀元前には古代ケルト人の集落があった。ローマ帝国の時代にはブリガンティウムと称され、軍営地がおかれた。3世紀後半にはゲルマン人による攻撃で荒廃したが、その後ゲルマン人とケルト人とローマ人との混血で、アレマン人が民族形成されて、再建された。

リヒテンシュタイン伯を兼ねた[1]ブレゲンツ伯、モントフォール伯の支配を経て(30年戦争や魔女裁判の影響で、モントフォール伯家が途絶えたり、財産圧迫に陥ったブレゲンツ伯がリヒテンシュタイン家にリヒテンシュタインのみ売却し、リヒテンシュタイン家が統治した)、16世紀よりハプスブルク家の支配下におかれた。


      ウィーン旗

    ウィーンの紋章

ウィーン,オーストリア首都。2017年1月1日時点の人口は186万7582人。都市単独で一つの連邦州であり、ヨーロッパ有数の世界都市である。第一次世界大戦まではオーストリア=ハンガリー帝国の首都としてドイツを除く中東欧の大部分に君臨し、さらに19世紀後半まではドイツ連邦神聖ローマ帝国を通じて形式上はドイツ民族全体の帝都でもあった。クラシック音楽が盛んで過去にモーツァルトベートーヴェンシューベルトなど、多くの作曲家が活躍したことから「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる 
ローマ帝国の宿営地ウィンドボナ (Vindobona) をその起源とし、かつてヨーロッパの数か国を支配したハプスブルク家オーストリア帝国の首都であった。マリア・テレジア女帝時代に栄えた市街は、フランツ・ヨーゼフ1世の治下で整備された。リングと呼ばれる環状道路は、ウィーンの近代化を実現するために、19世紀の後半にかつて旧市街を囲んでいた堀を埋め立てて造られたものである。シュテファン寺院(シュテファン大聖堂)や旧市街をふくむ歴史地区は、「ウィーン歴史地区」の名称で2001年ユネスコ世界遺産に登録された。

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